日日是好日

よく生きている

DRIVE MY CAR

 

 

静かな映画だった。

映画の静けさは無駄が無いということで、

カット一つ一つがすっと胸に入り込む。

三時間という長時間は感じさせられず、

終始胸がざわついていた。

 

トンネルに入りトンネルを抜けたら光が差し、

それでもまたトンネルに入ってしまう。

そんな繰り返しを見せられる。

大抵の映画ってこんな感じでしょ?

てか人生とかそんな感じじゃない?

みたいな。人生は映画?

いやただ映画を人生に見立てているだけ。

あくまで映画は表現方法の一つだと、

監督は一歩引いて割り切っているように感じる。

 

私の車を走る ということは

私の人生を生きる ということと、ベタに解釈。

誰かを乗せたり降ろしたり

どこかに向かって故郷に戻って

知らない道を走らせていくということ

車好きの男性のロマンみたいだけど。

私は運転をしないけれど、

よく見る広島の街並みは

父が私をよく町まで送ってくれた道だ。

16:9に切り取られた画は

後部座席から見た風景によく似ていた。

 

ベタな解釈と

不自然な発声。

役者が“悲しみ”を演じてしまえれば

私たちはそれが“悲しみ”だと解釈せざるを得ない。

しかし発声されたら言葉だけでは、その人が何を考えているのか理解し難いのが実際のコミュニケーションだ。

 

役者本人の感情をのせない演技は

映画の、脚本のピュアさを引き立たせられる。

嘘くさい演技で塗られない。

最初に感じた不自然さはいつしか本来わたしたちが他人に抱く感情と重なり合って、どこからが演技でどこからが本気なのか現実と物語のさかいめが曖昧になっていくのを感じた。

 

鑑賞者と映画の中の登場人物

登場人物と、映画の中の中の物語

それらは時に共感しあい時にすれ違い、

決して全く同じと重なり合わない。

誰しもが何かに自分を重ね合わせては

悲しみを共有し辛さを分かってもらいたい。

でも表面だけで自分を分かって欲しくもない、なんて。

 

この映画の中で

いくつものモノが交差して重なり合う。

前述した、鑑賞者と登場人物。

架空の登場人物と架空の劇中劇。

ワーニャと家福。

ソーニャとみさき。

サチと音。

音と空き巣少女。

本物の空き巣と家福。

挙げてもキリがないほどに。

 

しかし高槻にだけは

理性のない人間に対しての

拭いきれない不信感を持たせられる。

自分を上手く制御出来ない彼を見ていると

人間の中にあって普段目を逸らしている

本能的な感情がむき出しになるような、嫌悪感が湧く。

彼はある意味で一番純粋な存在で、

音の不穏な物語だけが

彼をわかってくれたのかもしれない。

哀しい存在だと同情をしてしまいそうになる。

それにしても演じる岡田将生の狂気やいなや、

あの人は本当に盗撮されたら撲殺するかもしれない。

彼の出演する爽やかな車のCMが皮肉に見える。。

 

そして、みさきの第一印象はもさっとした

育ちがあまり良くなさそうな、

呉あたりの(偏見)広島の女だったのに

北海道の故郷での彼女の肌は雪のように白く

まぎれもなくそこで生まれ育った道産娘(?)なのだと解った。

単なるヘアメイクの演出なのか

それとも私たちが物語の進行のなかで

彼女を少しずつ解ることが出来たからそう感じれたのか。

 

 

相対する、

本能のまま衝動に生きる若い男と

理性的で感情を伝えることを怯える中年の男。

同じ愛する女性を失った男同士は

同じ悲しみを分かち合うことを、拒む。

 

それに対して、

妻を亡くした夫と母を亡くした娘は、

その対象が全く違う知らない人物でも、

痛みを分かち合おうとすることが出来た。

それは彼らがお互いに感情を言葉にするのが不器用な者同士だったからかもしれない。

 

韓国手話の夫婦の姿は象徴的だった。

言葉を声として介さずとも

誰よりも分かってあげようと想えれば

そんなものは障害にならないのだ、と。

逆にいくら共通言語があっても

分かろうとしなければ、

物理的に傍にいても目を逸らしてしまえれば、

心は通じ合わせることは出来ない。

 

 

誰しも心に踏み入って欲しくない場所や

どうしても分かりえない他人がいたり。

たまに何故かふと分かり合える存在に出会ったり。

どんなに愛し合っていても心配になるし

過去は消しされないし未来も不安になる。

なんなんだよ難しいね人間関係って叫びたくなる。

時に全てを投げ捨ててしまいたくなる。

それでも生きていきましょうよワーニャ叔父さん。。

人間同士、理解し合うことは出来なくても、

寄り添うことは出来るのだから。

独りになれるほど、私たちは強くない。

 

生きて、この長い夜を耐え抜きましょう。

 

怒ることも悲しむことも苦しむことも

笑い合うことも喜ぶことも

生きることに嘆くことすら

生きているからこそ出来る

尊い営みなのだから。